ポキとフリークスと人間と・・・

何処に行っても同じか・・・。
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手についての妄想。
絵画や文学、映画などシュルレアリスムの作品で度々登場する“手”の存在。


他の如何なる身体でも、手ほどシュルレアリスムの作品の中に頻繁に現れて、個人的に様々なイメージを喚起するものはない。



仮に身体の一部分を描写する場合、それが目や口や足では意味が全く違う。

“目”を見た瞬間、我々はやはり“眼差しを投げかける”というイメージを抱くし、それは一方的な関係だから支配なども想像するかもしれない。シュルレアリスムはよく言われることに、名詞と名詞間の力関係を廃した描写を試みるものであるから、主語は欠如する。全体を構成しようとする目は相容れない。


“手”というものは、それだけで断片的であることを表象しているように思えてきた。
描写自体が断片的でコラージュである場合が多いのだけど。
道具として受動的でもあるし、同時に主体的でもあるし。
でも厚かましくはないのだ。どこか慎ましい印象を与える。


自らの中に絶えず他なる要素があって、それは終わることなく溢れ出していく。
そのようなイメージ。


またこの話か、てことになるけど、フルCGアニメは本当に視覚のみに頼って作られたものだ。このフルCGの世界においては未完の部分や異質な部分の排除はたやすいことだ。CG技術は視覚の欲求に映像を従わせることを可能にした。しかし観る者を受動的な立場に限定して娯楽を提供するが、何一つとしてこちら側からの働きかけには応じないという排他的な性格が非常にグロテスクでもある。そのような作品を観て感動し、涙するような状況だけを見て、感受性が豊かなんて言いたくない。むしろ逆に鈍感になっていないか。その皮膚の感覚が。


昨日はGMCの新年ライブだった。
Erykah BaduとCoccoをやった。

“新年”ということだけあって、当然のごとくグタグタなノリだった。


飲みを含めて恥ずかしいことだらけ。
でもこのタイプの恥ずかしい思いは慣れた。いや、もともとこれくらいでは羞恥心を覚えなかったかもしれない。

でもそれを感覚の麻痺だとか、鈍感というのはせめて間違いだと言わせてほしい。
若干その要素も入ってるけど。

18:24 | 本とか | comments(2) | trackbacks(0)
『百頭女』
百頭女
百頭女
マックス・エルンスト



 これは本当にどう評価したらいいのか、今の時点ではわからない。マックス・エルンストによる、シュルレアリスム文学における最大の奇書と呼ばれるこの作品だが、気取って挑戦してみただけではわかるはずもない。やはりこのような奇書でもヨーロッパ文学の教養があれば器用に読めると思うのだが、今のわたくしにとってはただの目くらましにしかならず、“文学”を語る際には混乱しか与えない。
 最低限、シュルレアリスム文学としての枠組みの中で読めるものかと思っていたが、むしろ構成は“絵本”に近い。コラージュで構成されたいかがわしい悪夢のような絵で脈絡もなしに綴られる無意識の物語。“コラージュを多用した絵”ということではヤン・シュヴァンクマイエルの『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』の絵本と同じようなものかと思いきや、全く性質が違う。シュヴァンクマイエルは“夢”という普遍的なテーマを突き詰め、呪術的であるのに対し、マックス・エルンストは何一つとして現実からの逃げ場を用意していないハードボイルドなイメージがある(ΘεΘ)名前から想像できるように、彼はドイツ人であるが、フランスに帰化し、この本をフランス語で執筆した。彼についての情報はそれくらいしか今のところ得ていないので、この本がエルンスト移住の際の政治的な問題の皮肉になっているのか、そのような単純で即物的なテーマを扱ったものではないのか定かではない(*´∇`*)
 ただ、オリジナルはカラーなのに文庫本になると白黒になってしまうので、その絵を観た印象は、どうも品がなくて低俗な感じがする w(゜д゜;)wやはりそれは河出書房新社という出版社に本来の魅力が吸収され、市場の欲求に応えるために骨抜きにされた中で読むからだろう。安っぽいインクの質や紙の素材などが影響して、残酷な描写やエロティックな描写がひたすら下品に見えてしまうのが残念で仕方がない。しかしこの本はよくわからない部分が多すぎるので、またいつか何度も読み直す機会があると思う。最近シュルレアリスムをテーマにする度に、シュヴァンクマイエルの名前を出してしまう自分が未熟者であると痛感している(死)もう大晦日か・・・。どんなにつまらなくても紅白は観てしまう。しかもほぼ全部(死)




11:45 | 本とか | comments(2) | trackbacks(0)
触覚。
Ecole(エコール)―Les poup´ees d’Hizuki dans l’Ecole
Ecole(エコール)―Les poup´ees d’Hizuki dans l’Ecole
吉田 良,アニエスベー,陽月


 小学校の図工の時間に粘土で制作した作品(といえるのか・・・)の数々を改めて見てみる。それらは自分が作ったはずのものであるのに、正体不明の不気味な感覚を覚えた。明らかに、今までわたくしが行なってきた音楽活動の大半を軽やかに超越するほどのインパクトを放っている。当時のわたくしは何を考えてこんなものを生み出してしまったのだろう。これは十年近くたってから急に届けられた忘れ物のようなものだった。しなやかで、つかみどころがなくて、明らかに悪意剥き出し。ていうか只やりたい放題やっただけのような記憶も残っているが、実際のところよくわからん。小学校の時に作ったものを今改めて鑑賞すると、全てにシュールレアルの性質が宿っているように見える。当時何気なく作ったものが強烈な力を持って迫ってきて、しばらくの間凝視したり触ったりしていた。
 “触覚の芸術”に対する興味がポキの中で高まりつつある。彫刻や人形などを知覚する場合に重要なのは、視覚に頼るのではなく、触覚を通して受け止めることだと思う。ただ触れ、というわけではない。知覚する際の如何なる美化を排除して、作品と接触するのである。“見る”という行為の限界を感じてしまった。見るということに絶大の信頼を置いてしまうとその主観性に左右される見方しかできない。以前(かなり昔)からオブジェなり人形なりを制作してみたいという興味はあった。暇だったらとりあえず何かやってみるか、ということを来年の抱負にしようかねえ w(゜д゜;)wこんないい本もあるみたいだし。

吉田式球体関節人形制作技法書
吉田式球体関節人形制作技法書
吉田 良


 さすがにこんなものを作るなんて思わないけど。映画『エコール』を見逃して悔しかったけど、この陽月制作の人形とアニエス・ベーの衣装がコラボレイトした写真集も独特の生々しさとエロさがあって、見とれてしまう。何か、本当にヤバい作品に触れている気になる。


20:47 | 本とか | comments(3) | trackbacks(1)
わたくしは、話すことができます。
鏡の国のアリス
鏡の国のアリス
ヤン・シュヴァンクマイエル,ルイス・キャロル



 ここにあるのは溢れ出す想像の結晶であり、まぎれもなく純粋な夢の原形だった。だからこの物語、そしてヤン・シュヴァンクマイエルの挿絵はいつの時代になっても新たな魅力を獲得できる。以前紹介した『不思議の国のアリス』の絵本にあまりにも強く惹きつけられてしまったので、こちらも本屋で発見した瞬間に衝動的に購入してしまった。ていうかここ最近、こんなネタばかりだ・・・(死)
 ぱっと本を開いてみると、やはりシュヴァンクマイエルの挿絵の不思議な魅力に吸い込まれてしまう。コラージュを多用した子どもの悪戯のような絵。それらは明確なコンセプトやストーリーから派生していくイメージではなく、ただ単純に“夢”自身が自らに課す論理で展開していく。次々と溢れ出す想像を、丁寧に、真摯に形のあるものへと昇華する。そこからとても無邪気なシュヴァンクマイエルの姿が想像できる。彼の姿勢からは無意識や非理性といったシュールレアルの性格をうかがい知ることができると言えるかもしれないが、もはや彼にとってシュールレアルというカテゴリーすら意味を成さないような気がする。シュヴァンクマイエルにとってシュールレアルは“芸術”ではない。シュールレアルという運動は19世紀末に誕生し、1920年代には様々な分野に発展し、60年代以降に芸術史という大きな流れとともに木っ端微塵に解体されたという“芸術史”の一環として、“芸術の終焉”以前の過去に追いやられたものとして語られる。ヤン・シュヴァンクマイエルは、そのような本来作品が持つ力を封印し無力化しようとする言説に、毒と妄想を武器にして反抗する(ここからアメリカが主導権を握り一方的に発信する芸術史の語り方と、その流れからこぼれてしまうそれに対抗するチェコのおじいちゃんという構図を読み取ることも可能である)。見る人が見れば時代錯誤ともとれる彼の精神性故に、他のシュールレアルと語られる作品と比較して、彼の作品はどことなくロマンティックだ。
 ところで昨日は神明小学校の同窓生7人で飲んだ。久しぶりに集まった。楽しんだ。朗らかだった。ほとんどのヤツらは小学校以来会ったことがない。昔からこういうのが苦手だった。こんな時、どんな顔をしたらいいのかわからないんだ。どんなキャラで望めばいいかわからないんだ。でも、もう慣れたからそんなことすらどうでもよく思えてきた。そんなことを気にするだけ無駄だということには気付いていた。


13:36 | 本とか | comments(0) | trackbacks(0)
『不思議の国のアリス』
不思議の国のアリス
不思議の国のアリス
ヤン シュヴァンクマイエル, ルイス キャロル


 奇妙なクリスマスプレゼント。そう、実はヤン・シュヴァンクマイエルは絵本(ていうか挿絵)も書いていたのだ。この絵本では、彼はストーリーには全く介入せず、その奇妙で時にグロテスクな挿絵を書くことに徹している。ところで、ヤン・シュヴァンクマイエルの妻エヴァ・シュヴァンクマイエロヴァ(最新作の『ルナシー』制作中に他界・・・↓)は『ルナシー』も含め、過去『オテサーネク』などのシュヴァンクマイエルの作品に美術・イラストで参加している。ヤンの腕による、命を持たないものに生々しさとグロテスクさを与える魔法のようなアニメーションも衝撃的だが、エヴァによるルネサンス期のマニエリスムがシュールレアルに歪曲されたような絵画も強烈な印象を残す。しかし今回はエヴァの協力を得ることなく、ヤン自らが『不思議の国のアリス』の最初の挿画を手掛けたジョン・テニエルへのオマージュとして作成した。ちなみに『鏡の国のアリス』の絵本もヤンが手がけている・・・。
 おそらく数ある『不思議の国のアリス』の絵本の中でも、最もビザールで悪夢のような挿絵の数々が描かれている。シュヴァンクマイエルの初期の短編(『ジャバウォッキー』『オトラントの城』など)にみられるような、独自の美意識とその中に潜む悪意や毒が満載の挿絵が描かれている。これは子どもも楽しめるが、大人が読む絵本としても良質な作品だと思う。ポキはガキの頃にこのような奇抜な遊び心に溢れた、一捻りも二捻りもした絵本を読みふけりたいものだったが、本当に必要なのは今のポキにとってであろう。「これは子どもにとって刺激が強いかも・・・」なんて愚かでありきたりなことを言うな。絵本からそのような生々しい魔術を切り取ってしまえば、ただのマスコミの一種になり、市場のために生産されたものになる。子ども頃は知らず知らずのうちに想像力だけを武器に高みに到達し、そこから畏怖すべき無垢を湛えながら絶対的下位にある不条理で残酷な大人の世界を見つめるものだと思う。“子どものための絵本”という発想はそもそも市場の欲求を満たすために考案されたものだ。彼は「想像力がある限り、世界は完成しない」と語るように、魔術と芸術が溢れる世界を取り戻そうとする。
 ちなみにヤン・シュヴァンクマイエルが1988年に制作したアニメ、『アリス』とは全くの別物なので。あの世界観を絵本に写したものではない。やはりベタベタだけど、シュヴァンクマイエルの映画の中で『アリス』が一番好きだ。最近の彼の作品におけるアニメーションの役割は、哲学的なテーマをサポートするだけに成り下がっている気がするが、この作品においてはアニメーションによる魔術が溢れている。
↓↓
ヤン・シュヴァンクマイエル アリス
ヤン・シュヴァンクマイエル アリス




23:00 | 本とか | comments(2) | trackbacks(0)