ポキとフリークスと人間と・・・

何処に行っても同じか・・・。
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喜べ
喜ばしき知らせだ。

この映画を映画館でリアルタイムに観れる貴方達は幸せものです。
『エコール』を映画館で観ようと思ったその日が公開終了の翌日だったことに悔しさ。
もしわたくしが日本にいるのなら真っ先に観に行くだろうに。





『蛸の誕生』


幼女レズビアンだ!!(ё)







06:19 | 映画 | comments(0) | trackbacks(1)
ビクトル・エリセについて
ミツバチのささやき
ミツバチのささやき





 久しぶりに映画の話を。この『ミツバチのささやき』は以前、このブログの何処かでレビューを書いたような気がする。今わたくしがもう一度観てみたい映画の一つ。おそらく、これから先何度もまた観たくなると思われる映画の一つ。不思議な余韻がある映画だ。何故かふと、また思い出したので。
 日本ではスペイン映画はペドロ・アルモドバル、ペネロペ・クルスなどの名前でだいぶ知られていると思う。わたくしもスペイン映画は好き。ただし、ペドロ・アルモドバルやビガス・ルナなどの作品よりかは、わたくしはかなりの寡作ながらもビクトル・エリセの方を絶対支持。視覚的に刺激的なのは前者の方。またストーリーの衝撃度が高いのも圧倒的に前者だろう。特にペドロ・アルモドバルの作品では奇抜でド派手な色彩がギラギラと光を放ち、むせ返るような肉の匂いが漂う中、様々な倒錯者たちが体をこすり合わせて、こすり合わせる度に明らかになる圧倒的な差異の前にまた孤独と向き合うような、過剰が過剰を呼ぶストーリーがある。もはやこの向こうに純粋な享楽が存在するという想像を信じることができないのに、過剰だけがある。それはそれで好き。いや、この過剰を表現できるのは彼以外に誰がいるだろうか。あえて挙げるなら『ヘドウィグ〜』『ショートバス』のジョン・キャメロン・ミッチェルくらいか。
 しかしわたくしは個人的に10年に一度しか作品を発表しない寡作の監督ビクトル・エリセの方がスペイン自身に向き合っている気がして、何となく好き。やはりスペイン映画史を語る際に欠かせないのがフランコ独裁の影響であるが、彼の作品にはその自らの傷痕を至る所に見つけることができる。ペドロ・アルモドバルがフランコ政権下でも果敢に反体制的で挑発的な作品を発表してきた一方で、彼は自らの故郷の歴史を紐解き、自身の傷を見つめ、こんなにも優しく穏やかで、しかし途方もない喪失感を抱えた作品を作っていた。そこには薄暗い教会があり、聖母マリアがあり、軍人があり、廃墟があり、穏やかな陽光がある。
 わたくしは本当は『ミツバチのささやき』よりも『エル・スール』の方が好きなのだけど。一般的には『ミツバチ〜』の方が評価が高くて有名なのだろうか。この2つの作品が微妙にリンクしていることをほのめかすその手法は、本当にいくら評価してもし過ぎることはない。“エル・スール(南)”とはフランコ政権下の諸事情で生み出された(娘にとっての)父の神秘性の起源である。この映画はもともと未完成であり、娘が父の起源である“南”に旅立つ場面で終わる。そして、『ミツバチのささやき』で描かれている場所がその“南”に当てはまるのだ(人間関係に直接の関係はないけど。ちなみに『ミツバチ〜』の方が先に作られた)。ここで重要なのは『エル・スール』が大人になった娘の実存的(?というか?)な物語として成立するのは“未完”によって、ある十全な状態から省略・削除することによってであるということだ。この致命的な喪失からわたくしはこれらの2つの作品を行ったり来たりせざるをえないわけだが、『エル・スール』の後に作られた長編3作目『マルメロの陽光』を観たらどうなるだろうか。わたくしはまだ3作目を観ていない(死)ちなみにビクトル・エリセは70年代に作品を発表してから現在までに長編3作、オムニバス1作しか製作していない。寡作だな。スペイン映画が好き、という理由で副専攻スペイン語を選んだのは大学2年生の時なんだけど、今となっては本当に邪魔な存在だな。






22:33 | 映画 | comments(2) | trackbacks(0)
狂気
ヤン・シュヴァンクマイエル「ルナシー」
ヤン・シュヴァンクマイエル「ルナシー」



この映画を初めて観てから丁度一年たつのだけど、ついにDVDとして発売されることになったらしい。遊び心に溢れるアニメーション作家としてのヤン・シュヴァンクマイエルはなりを潜め、冒涜的、倒錯的なもう一つのヤン・シュヴァンクマイエル像が浮かび上がる。年が年なだけに、さらに妻のエヴァ・シュヴァンクマイエロヴァが天に召されたために、これが最後の作品になるかもしれないと誰もが予想したに違いない。しかし、彼は今新たな映画を製作中でタイトルは日本語訳で「今を生きる」といったものらしい。しかも全編アニメーションの長編だとか。やはり、自分の欲望にここまで忠実になれる人は、強い。





ちなみに、不運にもわたくしが日本を発った直後に発売されたらしい絵本『人間椅子』を誰かご存知だろうか。当然ながらエジプトでは手に入らないでしょう。江戸川乱歩の名作にヤン・シュヴァンクマイエルが手がけた怪しい挿絵が加わるという、あからさまに危険な本だと思うのだけど。


人間椅子
人間椅子
江戸川乱歩、ヤン・シュヴァンクマイエル



21:28 | 映画 | comments(2) | trackbacks(0)
『Pan's Labyrinth』

Pan's Labyrinth



 日本以外ではすでに公開している作品の中で、最も日本公開を待ち望んでいた作品が、これ。『Pan's Labyrinth』。不幸にも、わたくしのエジプト留学には間に合わなかったが、この映画をリアルタイムで映画館で観ることができるあなたたちは、その幸運に感謝しよう。個人的にこの映画を見逃すことはかなり惜しい。エジプトでは公開してなさそうだけど。
 内戦、フランコ独裁、世界大戦という混乱のスペインが舞台で、少女が残酷な現実から逃げ出し、一人妄想の世界に迷い込む、という設定はそのままスペイン映画の名作中の名作『ミツバチのささやき』、『エル・スール』(監督:ビクトル・エリセ)を髣髴とさせる。『Pan's〜』は派手なCGによる特殊効果が一つの見所であるのに対し、『ミツバチのささやき』『エル・スール』は絶妙な演出によって観させる作品であるが。スペイン映画(スペインの生活全般)に決定的な影響を与えているこの時期の生活と、自分の内部に閉じこもる少女の精神面が垣間見れる作品であると勝手に想像しておる。
 それにしてもビクトル・エリセの作品は寡作なだけに、それも静かで淡々としつつも、深い傷跡やダイナミックな変化が描かれている。いつの時も、わたくしがもう一度観なおしたい映画の候補に入る。いつ観ても、何回観ても、そのたびに思い起こされる何かが必ずある。『Pan's Labyrinth』に興味ある方に是非ビクトル・エリセの作品も観ることをお勧めする。
 それにしても『Pan's Labyrinth』みたいのう・・・。





22:03 | 映画 | comments(2) | trackbacks(0)
Naomiについて。

Eastern Promises



 Naomi Wattsは変態監督の作品に印象的な役で登場する女優として、キャラを確立したような。見た目は全然変態性を醸し出していないし、かなり綺麗な人なんだけど、何故か変態監督の作品によく出演する。
 デヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』(最新作『インランド・エンパイア』にはウサギ人間の声で参加しているから、かなり気に入られているのだろうか)にはじまり、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの『21グラム』『バベル』、メジャーにいつつもかなりぐちょぐちょなニュージーランド出身監督ピーター・ジャクソンの『キング・コング』など。公開を控えている作品には奇才デヴィッド・クローネンバーグの『Eastern Promises』(日本公開は未定)、そしてドイツのミヒャエル・ハネケ自身による『ファニー・ゲーム』のアメリカ版リメイクなど、国を選ばず、兎に角変態で性格が悪い監督から好まれているようだ。ちなみに『ファニー・ゲーム』のリメイクは監督はミヒャエル・ハネケ自身で、プロデューサーはナオミ・ワッツ。
 個人的に、彼女の存在を知ったのはやはり『マルホランド・ドライブ』からなのだけど。その強烈なイメージに翻弄されることなく、変態系作品に参加しつつ、自ら変態作品をプロデュースする側に就き、メジャー性もアピールするという奇跡的なバランスが保たれている。ハリウッドにしれーっと紛れ込んでいそうなメジャー感と、驚くような衝撃作を兼ね揃えている人物は彼女意外にどれだけいるだろうか。
 リメイク版『ファニー・ゲーム』の日本公開の情報はまだわからないが、オリジナル版は異色バイオレンスとしてお勧めできる。バイオレンス映画はほとんど観ないのだけど、この映画は“見せない”バイオレンスの痛々しさが嫌というほど味わえる、息苦しい作品だった。何処のTSUTAYAでもレンタルできるので、少し変わったバイオレンスが観たい方にお勧めしておく。ちなみにミヒャエル・ハネケは『ピアニスト』の監督。『ピアニスト』は個人的にかなり身近に感じられたし、状況がリアルすぎたのでその分痛かった。この監督はヒドい。本当に酷い。
 あとNaomi Wattsを起用する変態的な監督がいるとしたら、ラース・フォン・トリアーだろうか。今の彼女ならかなりふさわしい。エミリー・ワトソンやビョーク、ニコール・キッドマンの流れでナオミ・ワッツ。

『Eastern Promises』や『ファニー・ゲーム』はわたくしが日本に帰るまでに公開されないことを祈る。




02:00 | 映画 | comments(0) | trackbacks(0)
『shortbus』

shortbus


2006年 アメリカ
監督 ジョン・ミャメロン・ミッチェル



 留学直前に観た映画の一つ。改めて、ちゃんとしたレビューを残そうと思った。インターネット使い放題という素晴らしい環境のペンション・さくらに落ち着いたので、数ヶ月は定期的に更新できるでしょう。この映画は現時点でも日本の何処かで上映しているのかは定かではないが、観ることをお勧めする。
 監督のジョン・キャメロン・ミッチェルといえば、何と言ってもデビュー作の『Hedwig and the Angry Inch』の記憶が強烈で、主演・監督・脚本・音楽等、全てをこなすマルチな才能が発揮された。性転換に失敗したドラッグクイーンと煌びやかなグラム・ロック、彼を取り巻くアウトサイダーたち・・・という設定からは、愛すべきはみ出し者たちの哀れな物語かと思いきや、最終的にはプラトニックなイデアをモチーフにした男女の愛の形を探し求めるというものに行き着いた。監督自身が演じたヘドウィグの強烈なキャラ、サウンドトラックがあまりにも素敵で、高校時代にどっぷりはまった思い出の映画。
 今回の『shortbus』では監督のジョン・キャメロン・ミッチェル自身は出演していないものの、前作のアクの強い世界観を十分に引き継いだばかりか、さらに衝撃的なセックスの描写が加わり、嫌と言うほどの強烈な印象を観る者に叩き込む映画となっている。それにしても3人のゲイのセックスするシーンはどうやって撮影したんだろう・・・、なんて考えてはだめだな。監督側も、役者側も、まさに丸裸で望んだ映画だと思う。

・ストーリー
ジェイムズは30代のゲイ。常に深刻な悩みを抱えており、毎日自分をビデオで撮影している。ジェイムズには、彼を気遣う優しいパートナー、ジェイミーがいる。オーガズムを感じないカップル・カウンセラーのソフィア、それに薄々気付いている夫ロブ、SM女王のセヴリン、ジェイムズとジェイミーの二人が大好きなゲイのセス、ジェイムズのストーカーのカレブ、アンダーグラウンドパーティ“shortbus”の主催者ジャスティン・ボンド。これら7人を中心に語られる不可能なものとしての愛。

 簡単に前作と対比してみよう。前作『Hedwig and the Angry Inch』は男と女が、どんな形であれ、交わってプラス・マイナスがゼロになり、統合された、充足した状態に至るというモチーフが見られた(実際にそこに至ったかは別問題として)。テーマソング的な“The Origin of Love”の歌詞からそのことが明確に読み取れる。それに対し『shortbus』ではそれらのロマンティックな要素、個人を自足した内在性に回帰させようとする恋人たちの共同体に関する二つの幻想の拒否が見られる。すなわち個と個(あるいは個と全体)の“融合”、そして弁証法的に個を高められた普遍的主体の内に解消する“統合”という二つの超越性である。
 この映画は閉鎖的な愛の世界を、個と個の親密で幸福な“融合”または“統合”として描くことを拒否する。セックスの相手は近づけば近づくほど絶対的に相容れない他者として現れてくる。まずは他人として。次に性の他者として。絶対的な差異を広げながらも身を接して触れ合うことしかできない世界。いや、むしろ近づいて、肌と肌が重なることによって現れる差異。親切にジェイムズを気遣い常に彼に働きかけ所有しようとするジェイミーと、それに応じながらも一人の充足した世界に逃げようとするジェイムズ、ジェイムズを見つづけるジェイミー、その眼差し自体に不可解になるジェイムズ、同じくストーカーとしてジェイムズに不可解な眼差しを送り続けたカレブと、その眼差しにあるがままに身を投げ出しつつも不可解さを増すジェイムズ・・・。というように、見ようとする欲望、知ろうとする欲望の不可能性が乗り越えられないものとして現れる。絶対的に差異があり分割されている共同体を不可能性を通じてしか生きることができない。
 舞台となっているニューヨークという大都市の中の二人の人間、またはshortbusの大勢の参加者の中の二人の人間には、社会の中では身体の触れ合い以外には特に繋がりもなく、他と区別されない無名性の存在だが、しかし互いに不可解なものとして差異を際立たせることしかできない。彼らは、ただそこにいるという要請のみによって存在している。我々はすぐ超越的な媒介を期待するが、この映画はここに踏みとどまるという生き方を積極的に捉えようとする。大団円で終わる時にshortbusの面々によって歌われる詩に、全てのメッセージがあった。




ポキ評価
★★★★☆
出だしからびっくりだった・・・。




23:34 | 映画 | comments(2) | trackbacks(0)
とにかく、誰か!!

インランド・エンパイア



この夏、この映画をみにいこう。



『マルホランド・ドライブ』を髣髴とさせるストーリーだけに期待もかなり大きい。



よくわからん人はまずは、『マルホランド・ドライブ』をみて!!







マルホランド・ドライブ
マルホランド・ドライブ
ナオミ・ワッツ






17:51 | 映画 | comments(0) | trackbacks(0)
『おわらない物語〜アビバの場合〜』
おわらない物語~アビバの場合~
おわらない物語~アビバの場合~
エレン・バーキン



監督 トッド・ソロンズ
2004年 アメリカ



 久しぶりに面白い映画に出会った。公開された時期は違うけど、今年に入ってみた映画の中ではかなり面白い。御伽話のような冒険物語であり、残酷な報われない愛の物語であり、障害者、小児性愛、中絶などの大半のハリウッド映画が避けて通るような政治的テーマを積極的に扱った映画であり、ユーモアの要素も含まれている。何よりもアメリカで暮らしている若者の苦悩を描いた映画である。ハリウッド映画の位置的にはトッド・ソロンズ版『アメリカン・ビューティー』と言うこともできるかもしれない。『アメリカン・ビューティー』よりもさらに残酷で奇妙な物語だけど。さまざまな要素が含まれているだけに、それら一つ一つが宙吊りになったまま放置された印象も否めないが、それも含め、見終わった後何かを考えずにはいられない映画であることは確かだ。とりあえず現時点でこの映画はお奨めできる。
 まず手法の面から見ると、これはかなり斬新な映画だった。主人公はアビバという名前の女の子(確か12歳という設定だったはず)であるのだが、そのアビバという一人の女の子を、年齢も肌の色も、性別も異なる8人の役者が順番に演じるというものである。物語の構成としてはそれほどややこしくなく、アビバを演じるキャストが変わる際にインターバルが置かれるので、実際はかなり観やすい。6歳の少女から8歳の男の子、10代の女の子、42歳のジェニファー・ジェイソン・リーなどキャストに一貫性はないが、それらは全て同じアビバという人物を演じている。一番気になったのは巨体の黒人女性か。彼女がだんだんかわいく見えてきた。それはいいとして、まずはこの斬新な手法が注目された映画であった。
 では何故にこのような方法を採ったのかというと、監督のトッド・ソロンズ曰く、「ある人物に対してどのくらい共感できるかに関して、その人物の年齢、性別、人種などは関係ない。人々が外見によって持つイメージを崩したかった。そのためアビバの外見にはできるだけバリエーションをもたらすようにした。見た目が変わろうとも、アビバの中身は同じ性質を持ち続けるのだ。」…ということらしい。このトッド・ソロンズの解説がこの映画のほぼ全てについて語っていると思っていいかもしれない。

・ストーリー
12歳の少女アビバは母親になって子供に絶対的な愛を与えたいと思っていた。両親の友達の息子を相手に妊娠には成功。しかしそのことにショックを受けた両親に強制的に中絶手術を受けさせられるが、手術に失敗し二度と子供が産めない体になってしまう。夢をあきらめられないアビバは家出をし、サンシャイン・ホームという障害者の子供たちが篤い信仰の元で暮らす家にたどり着く。しかしサンシャイン・ホームはアビバの中絶手術を担当した医者の殺害を計画していた。

 トッド・ソロンズのインタビューの中でもう一つ重要な発言は、“回文(palindromes)”についてである(ちなみにこの映画の英語の原題も『Palindromes』である)。回文とは、物語の登場人物の名前に見られるように“AVIVA”“BOB”“OTTO”などの前から読んでも後ろから読んでも同じ読み方ができる言葉のことだ。この発想は物語の展開にも同じように見られる。つまり終末に向かって前進する物語、または本質的なものに達することができる物語ではなく、最初と最後が繋がっていて、近付いたとしても次の瞬間に遠のいてしまう物語である。
 アビバは妊娠し、たくさんの子供を持つことで心の隙間を埋めることができると確信しているが、物語の序盤でアビバの子宮は摘出され、一生子供を持つ機会を奪われる。得ようとしたものに辿り着ける手段は初めのうちから失っているので、アビバは回文のように循環することしかできない。循環する度にアビバはその姿を変え、問題の本質を別の角度から、別の語り方で突き止めようとする。しかし突き止めたいものはイデア化されている故にいかなるアビバであっても、そこに到達することはできない。またアビバを演じるキャストが変わる度に、彼女を取り巻く問題も、政治的・宗教的・哲学的な様々な様相を帯びてくる。それらは各視点から問題の本質を見た結果である。しかし結局は回文の永遠回帰の中でより的確な言葉を見つけ出し問題の本質を表現する方法を探す以外はできない。故にこの映画で提示される諸テーマ(中絶、小児性愛など)も宙吊りのままである。アビバの家族は中絶や同性愛の権利を主張する一方、娘の意見は尊重しない。サンシャイン・ホ−ムは子供たちを保護するが、中絶を認めず医者の殺害を謀る。どちらも何らかの形で誰かの命を奪う。アビバはこの二つの空間の間を行き来するのである。
 そして最終的には以前挙げた監督の言葉に行き着くのである。外見が変わり、政治的・宗教的・哲学的に語り方が変わってもアビバの性質は変わらない。ここでトッド・ソロンズが“人は変わろうと思っても変わることができない”と言った場合、それは悲観主義でも本質主義でもない。アビバの運命は過酷ではあるが悲観はしない。物語の焦点はアビバが行動したかに置かれている。その彼女の行動がなかったら何も語れないのだし。全ては行動であり、言葉で語ろうとすることである。その度に展開していくものだから。




ポキ評価
★★★★☆
5つまではいかないか。




13:52 | 映画 | comments(0) | trackbacks(0)
『エコール』
エコール
エコール
ゾエ・オークレール



監督 ルシール・アザリロヴィック
2004年 フランス




 この映画の邦題は『エコール』、原題は『Innocence』。何故原題をそのまま『イノセンス』という表記で日本で公開しなかったかというと、日本では同タイトルの映画やその他の作品と混同されてしまう可能性があったかららしい。ちなみに“エコール”で検索しても妙なアニメがガンガンヒットするが(死)そちらは知らないしどうでもいい話。とりあえず、その理由はどうであれ『Innocence』と『エコール』という二つの名前を持つことになったこの映画は、まさしく“イノセンス”と“学校”という密接な関係を描いている。大雑把に言ってしまえば全て近代的な諸概念を御伽話のような世界で表していると言えるのだが、それだけでは面白くない。特に、少女が好きなオタには。
 そう、これはDVDのジャケットを見ればわかるようにロリータ色全開の映画である。登場人物は数人の女性教師、シルエットの男性を除けば全て10代前半までの女の子なのだ。小学生だと思って良い。幼女も混ざってやがる。先日カルロス・サウラ監督の『カラスの飼育』を観たが、それを遥かに上回る少(幼)女たちの描写に驚いた。ちなみに以前わたくしがmixiで入っていた『エコール』コミュニティの参加メンバーのほとんどが少女好きのオタクなのか、トップの画像がやたらアニメ画像(しかも萌えてる)であったことに若干驚いた。日本ではこの映画は秋葉原と結びついたのか。わたくしは『ピクニック at ハンギング・ロック』『ヴァージン・スーサイド』の流れにみることができる“イデア化された”少女映画なのだろうと思っていた。エロスがあるからこそ絶対的にイデア化され、その永遠に反復する営みを描くことに自覚的な映画なのだろうと。しかし実際はその要素はあまり感じなかった。故に、映像はきれいなのだけど、後に引くものはなかった。
 ちなみに、わたくし個人としては映画そのものよりも、日本での公開を記念して制作された写真集『Ecole』をお勧めする。この写真集は映画『エコール』に出演した少女たちに似せて陽月が制作した球体間接人形にアニエス・ベーが衣装を着せ、吉田良が撮影するといった豪華な作品。個人的に映画での少女たちの描写よりも、血の通わない冷たい印象を与える人形の写真集の方が好き。無機的で温かみを全く感じないのだけれど、妙に生々しい。視線に力を感じる表現力はすばらしい。

・ストーリー
深い森の中に、全寮制の学校がある。そこで6歳から12歳までの少女たちが暮らしている。外界から遮断された謎めいた学校。彼女たちはみな棺に入れられ、外からそこに運び込まれる。年齢ごとに7色のリボンでグループに分けられ、自然の生態を学び、ダンスの稽古をして6年の時を過ごす。最年少のイリスが入学すると、年長のビアンカたちは森の赤の劇場で紳士淑女にダンスを披露し、外界へ送り返される。

 この映画の舞台は何処にあるかわからない、いつの時代ともわからない隔離された学校であり、その学校は深い森の中にある。そこでは少女たちしか存在せず、彼女たちが森や川で戯れているという不思議な空間であるわけだが、この映画に全編を通して流れている“暗さ”や“不安”は外の世界との繋がりに由来する。イノセンスは少女たちに本質的に備わっているものではなく、何者かによって他者として設定され、その他者との間で形成されたものである。しかもイノセンスという概念は、彼女たちはその時期にあって自らをイノセントだと認識しない。あくまでも彼女たちに対して抱く喪失感、または罪悪感、好奇心をよりドラマチックにロマンチックに表現する際に開発された概念である。故にこの映画に登場する小さな女の子たちは少女であるからにはイノセンスを体現しなくてはならない。そのように他者の欲望を反映し受け入れている。
 ではこの映画の少女たちにとって他者とは誰であり、何処で接しているのか。この映画の後半で年上の少女たちは地下の秘密の劇場(明らかに怪しい)でバレエを披露するが、そこには大人(男)の観客がいる。彼らは金を払って少女たちのバレエを見に来ているのだ。この劇場こそが外部と接する場であり、少女たちのイノセンスの起源である。もちろんこの映画をみている我々もそうなのかもしれない。しかしイノセンスの起源、劇場で何が行われているかは生徒たちには隠されている。外部から隔離された少女たちの神秘的な空間は、実は秘密の劇場で大人たちをターゲットにした市場というシステムで支えられている。そしてその中で学校はイノセンスを再生産する。故に彼女たちは踊ること以外できない。一方的に眼差しを送られる彼女たちには返す言葉はなく、学校からの逃避か死だけが静かな反抗になる。ここがどうしてもいやらしいのだが。せめてこれらのシステムの中で彼女たちの声で話すことができ、自分を表現することができたら、この映画はもっと良くなったと思う。学校の授業で進化論という極めて近代的な知識を与えられ、時間やその他のルールに生活を適応させられる中で、どのように彼女たちの生活を捉えるかにもっと自覚的になっても良かった。結局少女たちのイノセンスを掘り出す描写が映画の多くの部分を占めているのにもかかわらず、彼女たちの生き方にはほとんど手を付けていない。ただ、この映画は再生産のサイクルの中で完結するのではない。この学校の外に出る(または逃走)ことが次の希望として提示されている。いやらしさがどうしても残るけど。




ポキ評価
★★☆☆☆
やらしいなー(死)



11:56 | 映画 | comments(1) | trackbacks(2)
『LOVELY RITA』
ラブリー・リタ
LOVELY RITA
バーバラ・オシカ



監督 ジェシカ・ハウスナー
2001年 オーストリア


 
 またまた、これは奇妙な映画だ。80分という長さは映画としては短い方なのだが、これを観るのはなかなか疲れる。明確なストーリー性は不在であり、平凡な一人の少女の生活の表面を、ただ映しただけの映画である。何も深みも感じられない描写と、何処に行き着くとも知れない平凡な日常の展開が描かれているだけである。そうみられることを明らかに監督は望んでいるはずだが。そして、この映画の最後で突如、カタストロフィが訪れる。この構成はまさにそのままガス・ヴァン・サントの『エレファント』を髣髴とさせる。
 ガス・ヴァン・サントは映画界で異端児的扱いをされている感じがするが、実は彼は非常にわかりやすく他人の手法をまねる。しかも、他人の作品における手法に多大な影響を受けたということを、自らの作品公開時に公言しているので、これは確実にパクリだと思う。例えばハンガリーの映画監督タル・ベーラの『サタン・タンゴ』『ヴェルクマイスター・ハーモニー』は彼への影響は絶大で、2000年以降の彼の作品が大きくアート路線に方向転換するきっかけにもなった。ガス・ヴァン・サントの『エレファント』における、登場人物をひたすら背後から追ったカメラワークにその影響が特に表れている。またハーモニー・コリンの『KIDS』『GUMMO』のコラージュ的でストーリー性不在のまま日常を描くという手法もその後の作品に大きく影響を与えている。そしてこの『LOVELY RITA』なのだが、この作品が公開された時期がガス・ヴァン・サントの方向転換の直前なので、何らかの影響を与えていることは確かだ。特に『エレファント』の構想に多大なインスピレーションを与えたと思う。とは言うものの、これらの監督は相互に影響し合っているのだけれど。

・ストーリー
学校、冷え切った家庭の孤独感、異性への興味など、10代の女の子リタを取り巻く人間関係、そしてその中で静かに壊れていく姿を、オリジナリティあふれる斬新な視線から描いている。

 『LOVELY RITA』は、上に挙げた映画の名を見ればわかるようにありふれた少女の退屈な日常に潜む狂気を退屈な手法で描いた映画である。ただ、退屈といっても10代を経験した者ならおよそ共感できるような描写が溢れている。異性の気を引くために塗られたアイシャドウがやたら濃くて下手くそだったのを見て、10代の愚かさの古傷が痛んだ。冷え切った家庭で、何気ない会話ももはやできないのに、いつものように家のルーティーンを家族と一緒にこなしているのを見て、家族ですら物象化して見ていた時期の身勝手さを思い出した。学校での孤立感とかには多くの人が共感できるだろう。この映画を全部観たところでリタの苦悩に共感することも、内面を伺うこともできない。しかし、確かに彼女は存在していたと実感する。自分の中にも、あなたの中にも。
 この映画の描写は人によってはただ薄っぺらくて深みがなく、メッセージ性もないと思われるかもしれない。まさにそうだろう。この映画はリタという女の子に絞って、映画の中で生活しているそのままの姿を、“そのまま”描こうとした映画なのだから。この映画ではそれ以外の何も読み取ることはできない(その他の映画も基本的にそうなのだけど)。一人の女の子が街の中(家、学校、近所、クラブと様々に視点が移る)を移動し、その時々に見せる姿をカメラに収める。それらの姿は場所と人間関係の中で多様に変化する、その変化する様をただつなげる。このような移動し、変化する人間のそのままの姿をみるのである。故に、観る者は表面的な描写の底部に流れている一貫性やストーリー性を読み取ることが不可能だし、そもそも存在しない。誰であっても日常生活に一貫性はないし、そこで生活している自分自身も当然そうである。ある種のシュルレアリスム的な、都市のコラージュを表した映画であるといえる。
 彼女は何かに苛立っており、何かに悩んでいたことは容易に想像できる。しかしこの映画においては、それらの描写は意味を成さない。ただ彼女の生活全てを表面の延長として捉え、観る者は彼女の言葉も、表情も、身振り手振りも表面として知覚可能な様々なものを記号のように読み取るのである。故に我々は彼女の悩みの深さなどを求めていない。それは非常に薄っぺらいもとして表現されている。映画のラストで彼女が突然とってしまった行動に対して、我々は一貫した動機付けもできないし、悩みの根源を見出すことはできない。要するに、“深いもの”を“伝える”映画ではないのだ。このような映像に対する態度は明らかにガス・ヴァン・サントの『エレファント』『ラストデイズ』に引き継がれている。




ポキ評価
★★☆☆☆
ガス・ヴァン・サントと比べて映像があまり凝ってないので、これはかなり痛い(死)



15:34 | 映画 | comments(0) | trackbacks(1)